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かいじゅう兄弟

二分脊椎症のママと発達障害のかいじゅう兄弟が繰り広げるドキュメンタリー

第9話「熊本の現状と引っ越しへの想い」【2013年4月〜10月】

しばらく空を見上げることを忘れていたような気がします。

朝のSくんは、保育園の支度はしてみるものの、行かない!と号泣したり、庭で騒いだり。ご近所にも聞こえているんだろうな…と思いながら気がつくといつも怒ってしまった後でした。

私が病気で送り迎えができないので、母屋の家族がそれを代わりにしてくれていたのですが、朝の送り出しは、勤務時間からの逆算でタイムリミットがあり、「ほんとに、ごめんなさい!」と言って出発する家族を、よじれながら泣き叫ぶSくんと見送っていました。

でも、車が小さく小さくなって、見えなくなると、ケロリと泣き止んで家に入っていくSくん。弟Aくんはこのタイミングで母屋のひいばあちゃんへ。

今、思うと、Sくんに付きっ切りで、まだ小さかったAくんの相手を、私はあまりしていなかったかもしれません。Aくんが最初に言った言葉は「ママ」じゃなく「パパ」で、次が「ばあば」でした。

就学を前に、校区の小学校へ、役所の保健師さんと一緒に面談へ行ったり(熊本では担当がつき、付き添いしてくれる)、教室を見学させてもらったりする中で、普通学級でも育成学級でも、Sくんが幸せであればどちらでもいいと思っていました(熊本ではSくんの発達の遅れやばらつきでは、ほぼ自動的に育成学級へ行く事になる)。

一つ気がかかりだったのは通学距離でした。

道なりに歩くだけとは言え、子供の足で70分はかかります。うちの住所で校区の真ん中ぐらい、もっと遠くから通う子もいるそうで、集団登校はありません。狭い校区に割られた京都から嫁いだ私にとって、熊本の広い校区は想定外。発達障害のあるSくんが一人で通えるとは到底思えなかったのでした。

これから先もずっと、私が病気で送り迎えができないから、母屋の家族が送迎付き添いをするんだろうか。保育園の朝のようにごねたらどうしよう。道端で泣き出したらどうしよう…。

役所に聞いてみても、ヘルパーさんの手配などの制度はなく、「あなたが、障害があるのに子供を産んだんでしょ!通学は保護者の責任です!あなたができないなら、親族がするのが当たり前でしょ!」と厳しく指摘されてしまい、心がゴワゴワしました。
(京都には、障害児の通学支援や移動支援の制度があり、何でも親がしなければならないという事はありません。)

私には熊本の役所から「支援1」の判断で、ヘルパーさんが家事をしに週2回、1時間と1時間半だけ来てくれていました(月10時間)。田舎でスーパーが遠く、この時間制限の中で買い出しを頼むことは不可能で、我が家の買い出しは仕事帰りのお義母さんがいつもしてくれていました。週2回のヘルパーさんは、食事を作る事と、掃除、たまに洗濯の取りこみをしてもらっていました。
(後に、京都では、同じ症状で「要介護3」の判断になり、保育園の送迎とお風呂入れを含んだ月約120時間、ヘルパーさんが手配された。)

そもそも、障害で車の免許を取れない私が、車社会の熊本におり、家族の支援だけで生きようとしている事に無理があったのです。私の通院、Aくんの通院(心臓と腸に問題があった)、Sくんの通院と毎週の療育に合わせて、母屋の家族は仕事のシフトを組んでいました。ほとんどの平日の休みを私達の予定に埋め尽くされていたのです。

母屋の家族はいつも親切でした。「次のお休みはいつとったらいいですか?」「買い出しリスト送ってください〜。」と、当たり前のようにメールをくれました。でも、それは当たり前の事ではないと私は思っていました。

加えて、子供達のお風呂入れも母屋の家族がしてくれていました。
(のちに、京都ではヘルパーさんを手配してもらえた。)

なんでもかんでもお世話になって、母屋の家族の方が高齢で、本当なら私達がお世話をして楽をさせてあげなければならなかったのに…。結婚できて嬉しかったけど、子供が産まれて嬉しかったけど、親族が声も上げずに頑張る負担の上にある幸せって、なんだろうか。家族への感謝の気持ちより、申し訳ない気持ちの方が上回って、私はだんだんと苦しくなっていきました。

繰り返すSくんの通院では私の対応の足りなさ、知識や感覚の足りなさを懇々と指摘され、療育へ行くと、”熊本には高校の支援学校がないから、我が子を中卒にしたくなかったら、県外の寮生の高校へ出す為に、自活の準備をする事。もしくは、一家全員での県外引っ越しをすすめる…”という話をされました。

福祉の分野には地域格差があります。熊本にいて、家族への負担が増える一方で、いつの間にかハッキリと、熊本から引っ越しをする方向へと、私の気持ちは動き始めていました……。

つづく。