かいじゅう兄弟

二分脊椎症のママと発達障害のかいじゅう兄弟が繰り広げるドキュメンタリー

第121話「昔話。大きくなったら何になるの?」【2016年10月】

私の記憶は自分が生まれる瞬間、足元から光が射し込んできたところから始まります。今から三十六年前、札幌の病院で腰から背中に穴が開いた女の子の赤ちゃんが産まれました。私です。逆子で難産だった上に、二分脊椎症でした。脊椎や背骨は途中までしかなく、こぶのような大きな脂肪腫があり、そこには大切な神経や内臓が飲み込まれていました。

数日後、お母さんは穴の開いた赤ちゃん(私)を抱っこして飛行機に乗り、実家のある札幌から、秋田経由で自宅のある京都へ帰りました。京大病院で、脂肪腫を少し取り除いて穴を閉じる手術が行われました。最初のベッドの天井の記憶が今もしっかりと残っています。手術は成功しましたが、私には脳の障害が出る可能性や、命が短い可能性、一生歩けない可能性がありました。それから、お母さんは病院探しの日々に追われました。

二歳、少し大きくなった私は、整形外科で、装具をつけて歩く訓練を始めました。何度も転けて、頰に当たるひんやりした廊下の、長い長い先にいるお母さんを見つけて、私は何とか立ち上がりました。お家では足首を強くする器械に乗ったり、障害者専用のプール教室に通ったりしていました。通院、リハビリ、プール、ピアノと、一週間がとても忙しい、そんな毎日でした。

三歳になって、二年保育の幼稚園に入る前に、訓練入院をしました。広いホールのような部屋に50台ほどのベッドが並んでいる部屋で、周りは赤ちゃんから中学生まで、様々な障害のあるお友達が暮らしていました。廊下越しに学校もありました。

”なぜ自分がここにいるのか”分からないままの入院でしたが、二週間後、私を迎えに来たはずのお母さんが、「ここで預かってください!連れて帰りたくありません!私には無理です!」と泣き出したので、ようやく、私はなぜここに来たのかを理解しました。前日、私は先生から、”ここを卒業して普通の世界で頑張って暮らして生きて行きなさい”と話をされていました。

四歳、訓練で身の回りの事を全て自分でできるようになった私は、普通の幼稚園へ入園しました。読み書きができた私は、加えて習字も習い始め、毎日がますます忙しくなりました。装具の見た目が嫌で、一生懸命に訓練して、普通の靴もはけるようになりました。動物が苦手なくせに、将来の夢は「動物病院の先生」でした。

そして五歳、小学校へと進学するにあたって、二分脊椎症である私の受け入れ先がなく、私立を受験して合格した結果、二分脊椎の会から抜けて欲しいという話が持ち上がりました。”元気な姿を見ると傷付くお友達がたくさんいるから”という話でした。だから私はそれから大人になるまで、同じ病気に苦しむ人たちと友達になることはなく、普通の世界に紛れて暮らしていきました。

ある日、私が”お姫様の絵”を描いていたのに、それをお母さんが”お嫁さん”と勘違いして、お母さんが大泣きした事がありました。私はいつか普通に結婚もするつもりでいたので、”なぜ、お母さんがこんなに泣くのか”意味が分かりませんでした。

六歳、新しい医療用具を使う事になって、夏休みにまた訓練入院しました。この頃は加えて学習塾にも通っていました。ピアノが物凄く苦手でしたが、お母さんは私をピアニストにしたかったらしく、必死に練習をさせていました。私は将来、「学校の先生になりたい」と思っていました。

七歳は激しい虐めにあって、八歳の夏休みは2回目の脊椎の手術を受けました。麻痺や引きつりが酷くなって、度々転けるようになったからです。脂肪腫をまた少し取り除きました。八歳はお稽古事が多く、プール、ピアノ、キーボード、アンサンブル、習字、学習塾、英会話へ行っていました。私はお母さんの期待に応えるのに必死でした。

九歳と十歳は反抗期に入りましたが、相変わらずお稽古事には通っていました。ピアノ、アンサンブル、習字、学習塾、お料理教室、アトリエ。アトリエだけは自分の意志で通い始めました。私は絵を描くことが本当に大好きでした。「学校の先生」ではなくて、将来は、「図工の先生か、画家になりたい」と思っていました。

やっと落ち着いてきた十一歳には、体育の授業中に鉄棒から落ちて、右腕を骨折して入院、また手術をしました。この時から入院中の病院へ家庭教師が来るようになりました。私立の内部推薦は合格、その後、十二歳は右腕に埋め込んだボルトを抜く手術を受けました。

十三歳から十五歳、中学生時代は発達障害(特に学習障害)の方の症状をそれとは知らずに苦しみ、将来についてお母さんと喧嘩する日々を送りました。お稽古事はピアノ、習字、アトリエ、家庭教師のみ。高校生になり、十六歳は体調が悪化し、3回目の脊椎の手術をうけて、脂肪腫を少し取り除きました。十七歳はやっと苦手だったピアノをやめました。中学から高校は、絵のコンテストで賞金稼ぎをする日々を送っていました。アニメが大好きで将来は「アニメを作る人になる」と決めていました。十八歳は不登校の受験生、十九歳は浪人生。浪人中は予備校とアトリエだけに通い、独学でパソコンを始めました。「仕事でパソコンを使ってデザインをできたらいいな…」と思う一方で、勉強ができない方だったのに、将来は「心理学の方面にも行ってみたかった…」と思っていました。

二十歳から二十三歳は芸術系(映像)の大学生、どんどん病状が悪化して毎日学校へ通うのが不可能になりました。なんとかアニメで小さな賞をとって、二十四歳から二十六歳は自宅療養しながらフリーでデザインとライターの仕事をして暮らし、二十六歳には結婚をしました。二十七歳に長男、三十一歳に次男が、共に帝王切開で生まれました。三十三歳の時に長男が発達障害との診断、三十四歳の時に次男が発達障害との診断が出て、そして今に至るというわけです。

ピグマリオン効果とゴーレム効果というものがあります。ピグマリオン効果とは、期待された子どもが良い結果を挙げやすい現象の事。ゴーレム効果とはその逆の事。まんべくなくできる事に重点を置くと、私はただの落ちこぼれだったかもしれませんが、与えられた才能の方に目を向けて、良いところを伸ばそうと向かって行ったので、良い結果に出会えたのかもしれないと思います。

私のお母さんは、脳の障害や歩行困難、短命といった可能性を吹き飛ばすかのように、私に山のようなお稽古事をさせました(ちょっと多かったと思います、笑)。そして、ピアニストや◯◯士と付くような固い職業に就いて欲しいと夢を膨らませていました。

背中に穴の開いていた女の子(私)は、動物病院の先生から始まり、学校の先生、図工の先生、画家、アニメを作る人、デザイナー、心理学の専門家、結婚、出産と、いろんな将来を勝手に描きながら大人になりました。そして、我が子の結婚や出産への夢を持たないお母さんの想いを吹き飛ばしました。私の二人の子供達(かいじゅう兄弟)は発達障害があるけれど、そのおかげで今度は、以前から興味のあった心理学の勉強を進める事ができるのです。

かいじゅう達に、よく、「ママは大きくなったら何になるの?」と聞かれます。これ以上、体は大きくなりたくありませんが、夢や目標は大きく広く、”そんな事できるわけないよ”と人に笑われても、一見他者からは”方向性が見えない目標”であったとしても、自分が気になって始めた事と、親が良かれと思って子に与えてくれた経験は、必ず一つに束ねられた力になっていきます。

未来を自由に描いて、疑わず努力すれば、そこへ必ず近付く。学校の特別支援や障害者差別など、日々、解決しなければならない課題は山積みですが、かいじゅう兄弟はどんな未来を想像しながら大人になっていくでしょうか。私は今から楽しみでなりません……!

つづく。