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かいじゅう兄弟

二分脊椎症のママと発達障害のかいじゅう兄弟が繰り広げるドキュメンタリー

第144話「頼って生きる事」【2016年11月】

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障害者には、一般の方が受け取れる児童扶養手当や就学支援以外に、障害基礎年金や特別児童扶養手当等、様々な金銭的な支援や割引、免除があります。健常な方から見た時に「不公平感がある」という声や、「差別解消を求めるなら手当は全面カットにしたらいい」といったような声も耳にします。

私は「本当に、障害があっても不快感のない生活ができるのだとしたら、手当は必要ないかもしれない」と思っています。私の言う「不快感のない生活」とは、障害があっても雇用があり、自力で収入が得られる事から始まります。身体、精神、共に、どんな重度でも収入が得られる仕事ってあるでしょうか。あったらいいなとは思いますが、実際はほとんどありません。極わずかの方が工夫を凝らして収入を得ておられます。

手当カット→収入0→死んでしまう。これじゃ…困ります。家族が養えば…という声もありますが、介護をしながらできる仕事で高収入というパターンはあまり聞かないし、おじいちゃんおばあちゃんを養うだけでいっぱいいっぱいの場合もあります。だから、手当をもらって当然とは思っていませんが、こうしてしか生きられないのが現状です。

時々、「差別しない」と、「平等に同じに扱う」が混同されやすいと感じます。障害は個性だという声もありますが、個性で済まされない特性や、医療的なケアが必要なケースもあり、「差別しないよ、同じだよ」と言われて困る場合もあるのです。

障害と健常、そもそもの身体や精神の作りに違いがあるので、可能、不可能が存在します。男女の違いに近いものがありますが、そもそも「同じではない」のです。同じではないからどうするか、それが合理的配慮であり、差別を無くす第一歩ではないかと私は考えています。

最近では「障害児は出生前になるべく中絶してしまえ」とか「生命の維持にお金のかかる障害者は死んでしまえ」とか過激な声もよく聞くようになりました。中絶するのも、中絶しないのも、親の選択肢です。でも、障害に産まれた責任の在処は、その親にも、お子さん本人にもないと思います。なぜなら、その個体は希望して障害者になったわけではないからです。

更に言えば、今、元気な健常の方々も、いつ、何時、事故に遭って後遺症に悩まされるか、病気にかかって死に至るか、分からないのです。みんないつかは必ず死ぬという事において、人間は平等だなと思います。ちなみに、私の祖父は昨年、105歳で一切病気をせずに老衰で亡くなりましたが、こんな事は稀なのです。

「老人は長生きせずにできるだけ早く死んで欲しい」という切実な声もよく耳にします。本当に大変で、地獄のような日々です。でも、私達もきっと長生きして、また次の世代に介護される時が来ます。「自分が介護で苦しんだから、早めに自殺して我が子を楽にしてやろう」なんてストイックな考え方の人はほとんどいないのではないでしょうか。

正直なところ、金銭面、効率だけで見たら、本当に私なんか社会に貢献できていない存在で、ナチス政権に置かれたら真っ先に汽車に乗せられるパターンだと思います。

「頼りにして生きる」、頼るのが当然とのさばっているという意味ではなくて、「大丈夫だよ、頼ってなんとか長生きしてね」と、そんな社会に私はいたいと思います。どんな人も死なずに生きられるはずなのが日本です。また、追い詰められて死に至る人が後を絶たないのも日本の特徴です。救えたはずの命が毎日落ちていく、それは、とても悲しい出来事です。

好き嫌いもある、いろんな考え方がある、あると知った上で、違いを確認する所から始める、そして、合理的に配慮し合って、助け合って生きていけたらいいなと私は思います。偉そうに書きましたが、PTAでは全然上手くできませんでした。今も迷走中。簡単な事ではありません。でも、努力は決してやめない、それが私の生きる術なのです……。

つづく。