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かいじゅう兄弟

二分脊椎症のママと発達障害のかいじゅう兄弟が繰り広げるドキュメンタリー

第152話「昔話。手紙をください。」【2016年11月】

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* * *

三回目の脊椎の手術は、高2の春休み。脂肪腫を更に摘出する為のものでした。入院してすぐに手術をする為に、事前の検査は通いで済ませていました。

大阪の北野病院が移転計画を進めていた時期で、私は、仮の病棟にいました。病棟は個室が中心の構成で、末期癌や様々な難病の方、比較的高齢者が多くいました。

最初は大部屋へ、会う人、会う人、みんなから「若くていいわね。」と言われ、内心、”若い頃からずっと闘病で何がいいんだか分からない”と思っていました。周りと交流するのも嫌でイヤフォンで音楽を聴き続けていました。

そんな私を、向かいのベッドの女性Eさんがニコニコ微笑みながら見ていました。Eさんは丁度、私の母の年齢くらいの痩せた女性でした。視線は感じていたけれど、こちらから話す事はなく。たまに話しかけられた時にお喋りする程度でした。

私の手術は無事に済みました。集中治療室から二人部屋にうつり、歩行訓練の許可が出ました。私は早く退院したくて、痛いのを我慢して、看護師さんに付き添われて歩行訓練をする事にしました。歩き始めて数分後、視界がグラッとして廊下に倒れました。

水の流れる音がする……。

それは私の髄液でした。手術の縫い口から、ドバドバと滲み出て、廊下に広がりました。視界が揺れて、看護師さん達が走る白いサンダルの裏だけが見えました。

担当の先生(主治医ではない)が来て「今から背中に医療用ホッチキスを留めます。」と言って、看護師さんが私の口にタオルを詰めましま。

バキン!バキン!バキン!バキン!

4回の物凄い音が響き渡りました。針が一回に24本×4、痛かったはずですが、音の衝撃の方が強くて記憶に残りませんでした。タオルを詰めていましたが、気絶もしませんでした。
(後に、脊椎の手術の後に早くから歩行訓練をすると、傷口から髄液が滲み出る事があるというのがスタンダードになり、こういった事はなくなったそうです。)

結局、ホッチキスを留めましたが、ホッチキスを全部抜いて、縫い直しになりました。針を打たれた時は痛くなかったのに、針を抜くのは激痛でした。そして、退院が延びました。早く退院したくて歩行訓練をしたのに、そのせいで退院が延びた、ショックと苛立ちで口から言葉が出なくなりました。

夜、二人部屋へ、Eさんが訪ねて来ました。そして、私のおでこに手を置いて、泣き出しました。
Eさん:「◯◯ちゃん、病気って辛いね……」
なぜ、泣くのか。私には分かりませんでした。でも、私の目から熱い涙が流れました。母も泣きました。三人が泣いた涙の意味は違っていたかもしれませんが、三人共、張り詰めた何かがはち切れたように、ただただ泣き続けました。

それからしばらくして、Eさんが退院する時が来ました。Eさんは四人家族でまだ高校生の娘のこれからが心配だと話していました。私に、心臓につけた器械の名前を考えて欲しいと言って、名前をつけました。
Eさん:「一年後、私が生きていたら手紙を書くわ。◯◯ちゃんの住所を教えてちょうだい。」
住所を渡して私達は別れました。

それから私も退院し、定期検診の為に病院を訪れた時の事です。お世話になった病棟へ行く為に、私は渡り廊下を歩いていました。前方から車椅子にクタッと乗った女性が、看護師さんに車椅子を押されながら近付いてきました。Eさんでした。何も言わずにすれ違いざま、手を握って、通り過ぎて行きました。

一年後、手紙は来ませんでした。

私は、Eさんについてほとんど知りません。もう、私の事なんか忘れて、手紙を書くのも忘れて、元気に暮らしていてくれたらいいな…と思う時や、手紙が欲しいな…と思う時があります。

辛い時、Eさんの”病気って辛いね……”の声が聞こえます。体験しなきゃ本当の辛さなんか理解できない……。私もまた、他者の気持ちや痛みが分かっていなくて、傷つけたり、踏みにじったりしてしまっている時があったかもしれません。

長い時の流れの中で、命が生まれて、当たり前のように消えていく。仮の病棟も渡り廊下もなくなって、北野病院は新しくなりました。私は地上4階に渡り廊下があった道路から、何もない空を見上げます。そして、Eさんに会いたいな…もっと話をしたかったな…と思うのでした……。

つづく。