かいじゅう兄弟

二分脊椎症のママと発達障害のかいじゅう兄弟が繰り広げるドキュメンタリー

第406話「私も母とぶつかった」【2017年10月】

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中2の冬でした。私は母とぶつかって、ごはんを食べないストを二週間も続けていました。

事の発端は、高校の内部進学で、特進へ行くか、普通へ行くか選べるという話。私は芸術系へ進むと幼い頃から決めていたので、普通科へ行くと両親に伝えました。すると、母は激怒。

医師とか、弁護士とか、"◯◯し"とつく仕事をいくつか並べて、そういう仕事に就くか、ピアニストになりなさいと言い出しました。(私は2歳からずっとピアノを習っていましたが、大嫌いで、一番やめたいお稽古事でした。)

私:「私は努力しても勉強ができる方ではないし(大人になってから学習障害と分かる)、お医者さんや弁護士さんになるなんてとんでもない。その職種の方々に対して失礼だわ。私はピアノもずっと嫌いだし、早くやめたい。お母さんは自分がピアノを続けられなかったから私にやらせたいのだと思うけど、私にピアノの才能はないし、努力でカバーできるものでもないし、ピアニストの方に失礼。私は子供の頃から、アニメや映画やイラストやミニチュアが好きで、その方面へ行くと決めている。だから、高校は普通科へ行きます!」

いろいろ言い合った後に、母から"絶対に言ってはいけない"、けれど、"人生で繰り返し言われてきたワード"が飛び出しました。

母:「あんたなんか!生まれて来なければ良かった!どうせ、障害者に生まれた時点であんたの人生なんか終わってるわ!まともな就職もできない!結婚もできない!子供も産めない!生きてるだけで迷惑!早く死ね!通り側じゃなくて、境内側に向かって、今からすぐ飛び降りて死ね!」
(自宅はお寺の境内にあった。暮らしていた住まいは4階建て。)

まただよ…。と思いながら、ふつふつと湧き上がる感情に蓋をして。その日はそのまま寝ました。そして、翌朝から、母が作った食事を見ると吐き気がするようになりました。だから、お弁当も捨てていました。

日々、友達に心配されながら、結局、担任の先生が私と母の間に入って親身になって話を聞いてくれたり、阪神淡路大震災があって被災者の方々がお寺に避難して来られて、おばから、ごはんは大切だよ…と説得されたりして、私はようやく母の作ったごはんを食べる生活に戻り、進学調査票には、普通科へ行くと書きました。

正直、この時期の私が通っていた私立は進路を選択制にしていましたが、私のような頭の悪い子が特進へ行ったら…えらいことになっていたと思います。高校の特進へ行った友人達は本当にみんな頭が良くて、努力家で、後にみんな国立大や有名私立大へ行き、素晴らしい職業についていきました。…私には絶対に無理です(笑)。

Sくんとパパのやりとりは、私と母のやりとりに酷似しています。親から子へ、障害がある子だから故の厳しさだったかもしれないけれど、もっと言い方があるだろうにと私は感じ、毎日、声を殺して泣きました。

「勉強だけが自分を裏切らず、必ず自分に返ってくるから、悔しかったら、勉強をすればいい」と私が本当に気付けたのは高2のある日、バスの中で。

まだ9歳のSくんにそれを話しながら、まだ、早いよな…、私の9歳なんて反抗期でまだまだ勉強も本気じゃなくて、ドラゴンボールの絵が上手いってやっとクラスの子達に認められて嬉しがってた時期だよな…と思いました。

発達障害の子は、発達の速度にばらつきがある、物の感じ方や度合いが違う、だから、誤解が多くて苦しんでいる。私はSくんの突出して秀でた能力をまだ見つけてあげられていないのだけれど、もしかしたら、Sくんの、早過ぎる感じ方、苦しみ方、ぶつかり方は、いつかSくんを救う鍵になるのではないかと思い始めています。

母は、障害があったら就職も結婚も子も諦めないと…みたいに思って苦しんでいたのだと思いますが、私はその3つはクリアしているし(私は無理だと思っていなかった)、パパがSくんに諦めを強要しても、いつかSくんがSくん自身で盛り返して来たら、その時、本当に喜びが込み上げて来るんじゃないかって思います。

道のりは長いですが、まずは、勉強。悔しかったら、少しでも、勉強。Sくん、ゆっくり、一緒に頑張ろうね……。

つづく。